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日記:十六日目:スポーツ

百日日記

はい。ええと……ごきげんよう。日記とは?聞いてはならない。言い訳、しかもひねりもないありきたりな正当化しか出てこないからです。

1日小説読んで夕方から出かけて少し勉強したり、早起きして用事をサボって勉強して明るいうちに帰宅したり、J.オースティンを返してS.モーム司馬遼太郎を借りたりしていました。あと人生で初めて電子書籍を買いました。iPhoneですけど、漫画ですけど。バレーボールのスポ根のアレです。めっちゃ面白い。勝敗読めててもハラハラして読むだけで疲れる。スポーツ全くやったことないけどついうっかり涙しちゃう。最後の試合という3年間補欠だったCMを思い出した。そしたら眼精疲労だと思うのだけど体調が悪くなり、目痛と頭痛と吐き気で1日に肉まんが半個しか食べられなくなった。スポーツやってないとこうなります。漫画読んだだけで倒れる。地球上の全種の中で生命力の偏差値2くらいだと思う。本はやっぱ紙だなあ。伝説のバスケ漫画をもう一度読みたい。あの最終話の無音は鬼気迫るものがある。

 

昨日はようやっとちゃんと手帳通りに行動できて今日もちゃんとバイトに行けました。英語と研究と報告書とESが喫緊でやらなければならないのだけど、関係ない数学と読書で一週間弱休暇してしまっております。背徳感による幸せ。生命力ないけど多幸感センサーは生きてるから、生きてる。

 

 

スポーツについて。

一年半前くらいに石津朋之という人の戦争学原論を読んで、スポーツは戦争の代替だったのかと面白がっていた。当時のEvernoteを引っ張り出すとこう書いてある。

おもしろかったこと
戦争とはスポーツの継続。ウィリアム・ジェームズは戦争を代替する一つの可能性として社会奉仕という新たな徴兵制度(exボーイスカウト)を提唱。
人類は戦争が好きなのかもしれない。個人の精神の中に衝動がある。戦争は人類を最も興奮させる。
戦争を無くした社会は、戦争を持つ社会に対して無力となる。戦争を無くした社会は、野蛮な集団、魂の無い機械、気概を無くした男たち、フェミニズムを生む。 

今日の日記には関係ないけどもういっちょ

1932年、国際連盟アルバート・アインシュタインに依頼をした。
「人類に取って最も重要な問題を選び、一番意見を交換したい人物と書簡を交わして欲しい」
アインシュタインが選んだ問題は戦争であり、書簡の相手はジグムント・フロイトであった。
フロイトは返答の中で「人類から攻撃的な性質を取り除くことなどできそうにない」と悲観的に述べた。

歴史を振り返ると、自由貿易や国民の一般意思など、平和のための要因だと考えられていたものが、皮肉にも戦争の主たる原因と見なさざるを得ない事例が多く生じている。

人類の攻撃性が弱まれば平和になるが、人類の攻撃性がもし弱ければここまで文明は発展しなかった。

 

 スポーツは攻撃衝動と一体感と高揚感の代替品なのか?ワールドカップとかオリンピックを観てるとそういう部分もあるのかもなと思うけれど、私は努力をする人のひたむきさを消費して感激している。ああまた消費とか言ってしまった。言葉遣いが悪い。

 

特に好きな選手も観戦の習慣もないけれど、ソチの浅田真央は何度も見返すし、白鵬の生写真を実家の机のプラスチックシートの下に入れていたり、カープ優勝後の広島の街角動画は結構漁った。

決められたルールの中で脳を絞り、自分の能力を磨き、チームプレイなら団結して、スポーツ観戦には、ひたむきな純粋と、結果の明解さと、努力が報われる華やかさという、現実生活でなかなか触れられないものがたくさんある。いいよねえ。自分がスポーツをしないので成功者あるいはフィクションの観戦しか書くことがないけれど。

 

 

人類の攻撃性について。

私は絶対に腕力では勝てないので肉体の攻撃衝動だけはない。そんなフィールドで戦ったら最初に負ける。嗜虐性はあるんだと思う。小さいころに姉と友達と蛙レースをやって蛙の虐殺をしていた記憶がある。こんなこと書くとサイコパスだと思われそうだな。無事に社会的に矯正されたので今は暴力映画どころかアクションゲームもできませんので、ご安心くださいませ。

攻撃性なあ。身体を動かすと精神的にヘルシーになると言われまくってるけど、どういう仕組みなんだろうね。運動する人は攻撃性が消え去るとは思わないんだけど、どうなんだろう。大した考えもできなさそうなのでここで止めておきます。

 

スポーツってエンタメなんだろうか、芸術なんだろうか。感情を動かす技術という意味ではartだと思うけども。なぜスポーツを愛する人間が多いのか、というのは答えは多々あれ、考えてみると面白いので愛好家に聞いてみたい。