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映画:沈黙-Silence-への感想

2017年1月31日、プロテスタントの友人と観に行った。

原作は中学か高校の頃読んだはずだが、当時はよく分からないまま「とりあえず有名作品を読んだ」だけで満足していたはずだ。

安直な私は、当然のように鑑賞後大きな衝撃を受け、なかなか現実世界に戻ってこれなかったが、「すごかった」とか「考えさせられる」とかTweetしてるだけでは何も残らないこともよくよく実感しているので、自分の頭を整理しようと思う。

 

ちなみにこのブログ(開設は2016年5月にしたのだが、書いては消しを繰り返していたので何も残ってない)の『sound of silence』はSimon&Garfunkelの歌が好きなのでつけただけで、静謐っぽいのと孤独っぽい雰囲気だけで選んだ。ので遠藤周作とは何の関係もない。

のだが、今調べてみたらこの曲は1965年発表、遠藤周作の『沈黙』は1966年発表。

この曲は都会?時代?の虚無感を歌ったものだと思うのだが、最後に神についての歌詞もある。遠藤周作はこの曲を聴いただろうか。この曲の、人々の沈黙と、遠藤周作の神の沈黙は、本人は意識してないにしても、紐付けられる何かがあるだろうか。

 

 

宗教への憧れ

『沈黙』そのものについては一旦おいて、まず私的なことから書こうと思う。

カトリック系の学校(奇しくも同じく、イエズス会)に通っていたからか、何とはなしに「信仰を持つ人」に憧れがあり、大学に入りたての頃は何冊か宗教学の本を読もうとした()し、偶然出会ったキリスト教徒と仲良くなっ(て聖書熟読会に誘われ、警戒して距離を置い)たこともある。第二外国語アラビア語をとってイスラームについても軽く触れた。

その後は勉強よりも学生団体に没頭し、志やVisionといった空気にどっぷり浸かった。なんやかんや時代背景もあって、回り回って大学院に入った今、また宗教的somethingに帰ってきた。この宗教への憧れはどこから来るのだろう。

 

伝統や共同体が希薄化し、個人の自律が求められる時代。信念を自分で見つけなくてはいけない。「原体験」や「やりがい」を持って情熱的に生を燃やしている人へ憧れ、なれない自分に呆れ、呆れることに疲れてきた。何かに奉じたい、けれど何かが見つからない。

自分が善だと思うものに殉ずる生って楽しそう。そういう意味で「信じるものは救われる」はありそう。だから信じるものが欲しい。信仰って羨ましい。

一時は「理想主義」「リベラル」という信仰対象を見つけていたので、それに努力する人を見るのは胸が熱くなった。メルケルとかオバマがかっこいいと思ってた。今でも「かっこいい」とは思っている。でも彼らは彼らの理想主義を叶えることはできなかった。2015年から2016年にかけては、私にとって「理想主義」「リベラル」に対する信仰の喪失の日々であった。自らの理想を叶えようとして正反対に近い帰結を招いてしまった指導者たちと、個人的な経験からも、理想主義とは美しいが善ではない、と思うに至った。

絶対的な、無謬の善を信仰したい。だから私は宗教に憧れる。

 

 

 

信仰は善か

大概のものにはポジとネガがあると思っているので、"客観的に"あるいは"真に"信仰が善だとは思わない。しかし主観的には、信ずる者にとっては善なのだろう。

『沈黙』は善だと思っていたものに疑いを向ける、という内容である。裏切り、迫害、拷問の中で神は沈黙を続け、主人公は神に問いかける。

信仰を善だと信じたまま、善に殉ずること(殉教)は時の治世者が許してくれない。キリスト教徒が、棄教より殉教を好む理想主義者である、ということをよく理解している江戸時代の日本の統治者は、リアリスティックに棄教を迫るのだ。

主人公は「信仰は善か」を問わざるを得ないよう追い込まれる。

映画の結末は白字で書くので、ネタバレ構わない人は反転で。

結局主人公は、棄教するのだが、映画の最後で信仰を持ち続けていたことが示唆される。自分の善を隠し、現実に妥協し、そのことで自分の善を修正あるいは消滅させるのだ。

「殉教しきる」「布教を行う」といった(多分当初の)善を全うできず、表面上は信仰を捨ててキリスト教徒弾圧に協力する。しかし本人は信仰を持ち続けている。(これは現実に妥協しながら(自分のせいでこれ以上他の信徒を死なせないために)自分なりの善に忠実であり続けたのか、あるいは偽善なのかは意見が分かれる点だと思う。)

どっからネタバレに入るのか分からなくなってきた。一応以下はあらすじ範囲内だと思うので色を元に戻すと、

主人公は「自分にとっての絶対的善の見直しを迫られる」という点でもしかしたら私は共感できるかもしれないし、「絶対性を疑」いかねない(一度は神の沈黙を問う)という点において、もしかしたら宗教ではないのかもしれない。

つまり、この映画に出てくる信仰者は、私の憧れる「疑わなくていい善を持ち続けていられる」信仰者ではなく、善に一度は惑うという点において、共通性がありうる人物である。(私よりもはるかに苛酷な状況に置かれているのでおこがましいし、実際につらすぎて共感できてないけれども)

 

それでも、彼は私とは違う。(当然だけど)

善を捨てたくない苦しみと、善がそもそもない虚無感の違いである。

神に問い、問う自分を責める信仰者と、問う先もなく、責めるべき自分も見つけられない根無し草とでは、客体(現実)と主体(自分)の輪郭の鮮やかさが違う。善の輪郭がはっきりしている信仰者は、自分の罪を自覚できるが、善をぼやかしたまま社会にも流されてフラフラしている私は、自分の罪も知ることができない。

(主観的)善を持って生きることが(客観的)善かどうかはわからないが(だいぶ混乱してきたぞ)、「善をもつ生への憧れ」が刷り込まれた私は、善探求を諦めた快楽的生を無意識のうちに見下し、善を探しているだけまだ自分は高尚になりうるかもしれないと薄汚れた傲慢さに、辟易としながらもしがみついている。

 

だから私にとって、信仰は主観的善であり、どうやら客観的善ではなさそうだが、それでも羨ましいなと思ってしまう。(ロドリゴ神父になりたいとは思えないが)

それがこの映画の感想、を書いている中で見つけた感想です。ふぅ。

 

 

 

やっとこさ:映画『沈黙』

私自身は、信仰への憧れバイアスから、無宗教的に、信仰とはなんぞや、という気持ちで観ていたが、一緒に行った友人は宗教的に、神とはなんぞや、と観ていたようだ。

また映画のネタバレになるので白字で。

友人は原作を読んだ時に一番重く受け取ったメッセージは、神(イエス)の

「私はただ沈黙しているのではない、沈黙の中であなた方と苦しみを分かち合っている」

という言葉に打たれたそうだ。キリスト教徒らしい受け止め方だと思う。しかし映画ではその部分がさらっと流されていた、神の沈黙ばかりに焦点が当てられていたと悲しそうだった。

私にとって神は無力だ、時に人を苦しめる。しかしキリスト教徒にとって、神は有益だから愛するのではない。どんな時も人に寄り添い、人と分かち合い、愛してくださるのが神である。 

キリスト教は信仰心でもって信仰が表されると考えるらしい。(本で読んだ)

イスラム教徒は行動でもって信仰心が表されるらしい。(本で読んだ)

なので他の宗教的な感想として、もしこの映画をイスラム教徒が観たら、偽善と受け取るかもな、と思った。(主人公は少なくとも行動ではキリスト教を裏切ったので)

それが先ほどの白字で書いた「意見が分かれる」と思った理由。

 

他にも、日本の価値観とキリスト教の相容れなさという点で鑑賞する人もいるようだ。誰かの感想ブログで見た。 原作では作者自身の長年の葛藤から、かなり重点をおいて書かれたのではと思われるが、映画(ハリウッド映画)でもちゃんと触れられていた。

西洋の宗教学ではやはり一神教が関心対象としての人気が強く、多神教はちょっと周縁化されているような気もするものの、この点でなんか一冊読みたいなあと思った次第。

 

あと興味深いのは、弱い人間の憐れさである。同情するという意味での憐れさではない。惹きつけられるという意味での憐れさである。キチジロー役の窪地洋介が本当にすごい演技で、語彙力も吹き飛ぶようなすごさだったのだが、すごかった。

ユダの立ち位置なので、太宰治の駈込み訴えと合わせて、弱さゆえに引き込まれる。フィクションだから、赦してやってくれ、愛してやってくれと思ってしまうのだが、これは自分自身の弱さを投影しているのだろう、現実にいたらきっと赦せないだろうとも思ってしまう。

この映画を観た人がいたらぜひ聞いてみたいのだが、

キチジロー、途中でキリストに被って見えるシーンありませんでしたか?映画で使われているイエスの聖像画の表情と、映画終盤のキチジローの目が、似ていると思ってしまって驚いた。どう考えてもキチジローはユダで、裏切りで、「汚い」のに。

キチジローがロドリゴ神父にとって試練であり、愛さなきゃいけないのに愛せないという象徴だろうか。愛してくれないロドリゴにそれでも寄り添い、愛してくる存在だということだろうか。偶然か、監督の意図か、私の見間違いか、キチジローがイエスに似て見えるというのが、ある意味一番心動いたポイントでした。

 

映画『沈黙』は音の演出がとにかく素晴らしく、日本の自然風景も壮絶な美しさで、映画館で見た方が良いと思うので、3時間弱だし観終わった後は数日残影がちらつくけど、よければ観てください。

 

 

 

蛇足:沈黙

感想ブログを書こうと思い立ったときはまったく念頭に置いてなかったのだけど、ついうっかりsound of silenceに気づいてしまったので、最後に考えるだけ考えてみる。

Simon&Garfunkelの歌詞は、

People talking without speaking,

People hearing without listening,

People writing songs that voices never share

というところに表れているのではないかと思う。1965年でもこうだったらしいが、現代なおさらそうなっていよう。誰も注視しないつぶやきや文章が、ネット上に絶え間なく膨大に流れていくが、その激流には音がない。雑音あるいは無音として、静けさすらある。

寂しさと孤独を感じる歌だが、遠藤周作の『沈黙』と重ね合わせるならば、求めるのに応答がない、切望と諦めが似通うように思う。

キリスト教の教えには、求めよ、されば与えられん、という文言があった気がするが、『沈黙』でも『sound of silence』でも何もかえってこず、ただ独り立ち尽くすような光景が浮かび上がる。

求めても与えられない沈黙は、今日も世界を覆っている。