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日記:二日目:音

昼になって客が増えてきたので、喫茶店を出て駅に向かう。

陽だまりに浮かぶホームの端へ歩いていたら一瞬ふわっと無音になった。

駅なのに人のざわめきも金属の轟音もなく、線路の両脇に構える家々からも気配がない。春みたいな陽気だけれど、その瞬間だけはやけに鳥も黙っていて、温度のある風景画を見ているようだった。

 

生協で昼食にミネストローネを買ってから院生室へ向かう。深い紙皿に入っていて電子レンジであっためるやつだ。この紙皿の底を、プラスチックスプーンでひっかいてしまった音が苦手だ。今日もこすってしまった。

 

 なぜ日記を書くのだろうとぼんやり考えていた。ふだん、あまり考え事をしていないので、今日は日記を書くのだなぁと思っていたら音とか色合いばかりが目につく。あとから読んだ時にもう一度今日の空気をさわれるように書こうかなあと思うけれど、書かなくても覚えていられる空気はあるし、書くことで生々しさがなくなって少し乾燥することもある。

 

書かなくても覚えていること 

 小6の夏に、父の書斎で勉強を見てもらっていた。なにかで父が階下におりている間、橙色のコスモスが描かれた背の高いグラスを眺めていた。右手の窓から差し込む陽にグラスがきらきらと輝いて、この絵を一生覚えていようと決めた。文字に書いてしまったのは今が初めてだが、この映像は何度も取り出している。

 記憶には寿命があって、生き延びたものは定着するが、これは意識して選択的に延命させた絵だ。日記にもそういう効果があるのかもしれない。

 忘れてしまったと思っていた記憶がふと蘇ることもあって、そうした瞬間はなんだかうれしくなる。母と手をつなぐと、手が肩より上にいくような幼いころ、自分の心臓の音がまるで軍人の行進のように聞こえた記憶とか。これが蘇った瞬間はひどくうれしかったが、いつ取り戻したのかは覚えていないし、今では望めば取り出せる「意識的に生き延びさせた記憶」カテゴリーに入ってしまった。

 

 今日、書こうかなと思ったけれどやめた場面がある。選んだのは数秒の無声映画だ。単調な春の始まりの日々として、あのホームの場面は選択的延命となるか、文字の記憶となって空気は忘れてしまうか。書かなかった今日のどこかが、いつか心臓の軍靴のように蘇ってくることはあるか。