日記:八日目:らしさの分類

 小雨ふる朝、電車の窓に音もなく水滴が増えていく。車の中から雨を眺めていた幼い記憶を思い出す。窓についた水滴がゆっくりと他の水滴にくっついて、一定の大きさを超えると筋になって斜めに流れていくのだ。「大人になるということは、車の後部座席で何も心配せずに眠っていられなくなること」みたいなことを言ったのはチャーリーブラウンだったか。

 

 二週間ぶりにバイトに行く。出張や代休、自宅作業が重なって珍しくガラガラだった。花好きの人がいて今週は淡い色のスイートピーが生けてあり、水に浸かった草の匂いがする。効きすぎた暖房が暑い。途中で来たどベンチャーの人、Macに色あざやかなステッカーが貼ってあるような、そういう人が灰色Tシャツの半袖姿になっていて、ベンチャーっぽかった。

 

 らしさを語る言説は巷に溢れている。ジェンダー地域国籍地方年代にとどまらず、さらに細分化して〇〇系△△とか、好きなもの別になんとかファンやかんとかオタ、大学学部学科サークル部活とか業種職種とか、〜な人のあるあるネタ好き。分類好きと言ってもいい。

 

 分類することの楽しさ、パターン化したがる欲求はどこから来るのか?

自分のアイデンティティについてなら共同体所属意識を得たいのだろう。他人についてなら理解した風を装うことで優位に立ちたいのかもしれない。「〜はすぐ**する」の構文であるある行動を指摘するのは、牽制意図もあるのかもしれない。新しいもの(人の種類など)を発見したという快感もありえそうだし、認識パターンを増やせばいわば法則/公式が見つかるのと一緒で、相手を手っ取り早く認識する判断の早さは得られるだろう。

子供らしさなど論争の少ない、定着した分類であれば、分類することが目的なのではなく、共有された「らしさ」の上に具体例を積み重ねてほほえましいと言い合う、という消費の仕方もある。消費というと攻撃的なら愛でると言い換えてもいい。

 

 どこにパターンを見出すか?

言葉遣いや身なり、やりがちな行動。そこに見下す感じや嗤う感じが含まれるとブラックユーモアになったり差別になる。その境目はどこか?ユーモアは難しいのでまた稿を改めよう。

 

抽象化や一般化をしないと、世界を認識したり予測できないので、人を分類しようとする傾向そのものは否定しがたい。時間も有限だし。どこかに区域を設定するとその中に一定の同質性が見えてくることもあろう。その区域の大小と同質性判断の妥当さは問題になりやすいが。