日記:九日目:自分のコンテンツ化の消費

とうとうこれについて書くときが来た。自分をコンテンツ化して消費されるということに抵抗があった。あるいはある。今までこの一言で済ませてきたが、思考停止に拒否してただけの気がするので、一度きちんと理解しておかねばならない。


何に抵抗があったのか
SNSにキマってる顔を上げてLikeを稼ぐこと。自分史をインタビュー記事にしてもらってone of 大量インタビュー記事に埋没すること。誰かの感情を動かすために泣いてみせること。ネット記事やテレビの特番に氾濫する感動ポルノ。


なぜ抵抗を感じていたのか いるのか
お金のため、承認欲求を満たすために、肉体や人生情報を切り売りする気がしていた。それの何が嫌なのか?自分を手段にしている感じ。くだらない自尊心なのかもしれないけれど、何かのために存在するわけではない大切なものを、何かを得るためにダシにする、ということが、ひどい言い方をすれば、卑劣な行為のような気がしていた。している。


留保
目的と手段が合一であればいい。考えや感情や日常を、Twitterやブログや論文に書くことは、整理したい、欲をいえば評価共感されたい、何らか誰かの思考を刺激するキッカケになれば、というほぼ利己少利他的な目的のために書いているからいい。
仕事として自分の能力などをコンテンツ化して消費されるのは、むしろそれが仕事の目的であるので、需要に応じて供給できるなら非常にありがたいことだ。

自分の容姿や肉体を商品化する仕事については難しい。美を売る人は憧れられ、春を売る人は蔑まれることがあるのはなぜだろうか。肉体をダシにしている点では共通している。肉体を手段として商品化することに、ご本人が納得されているならば異論はない。合一している。納得されてないのに売らなければならない人に、「自分のコンテンツ化消費に抵抗?甘すぎ」と言われても反論はできない。くだらないことを言っている自覚はある。

 


具体的に今の葛藤

上記を補足した今、くだらなさすぎて申し訳ないが、私が今なぜこの内容を書き始めたか理由。
就活でエピソードを混じえながら自己PRをする瞬間がある。そのとき話すエピソードは就活のためにやってきたことではない。のに話さねばならないとき、自分の大切な人々や記憶を、内定を得るために利用している気に駆られる。


正当化
自分が何者かを伝えるためには、人格形成のきっかけとなった事件や、これまでやってきた人生を、物語に編集しなければ相手に理解してもらえない。新卒で仕事の実績がほぼないので、物語は私的なものの切り売りになりやすい。


それでも
嫌だ。就活のためにこれまで生きてきたわけじゃない。あのことは私の内定のために起こったわけじゃない。矮小化して、いちエピソードに編纂して、就職のために利用して、裏切っているような気がする。本当に自分だけのエピソードなら割り切れる気もするのだけれど、いろいろな人が関わっているエピソードしか持ち札にないので、その人たちをダシにして利用している気がしてならない。

どうすればいいのだろう
どうすればいいのだろう。わからない。今日も乗り越えた壁を教えてくださいというあるあるお題に、とっさに一番重大なことを話してしまってひどく自己嫌悪に駆られた。もっとライトで罪悪感のないイベントをそれっぽく編纂すべきだろうか。本当に重大だったことを正直に話すべきだろうか。適当なエピソードでもそれが嘘でない限り、企業に対しては不誠実にならないとは思いたいが、もしそれで内定が取れなかったとき、利己的に後悔してしまいそうな自分もいる。

自分を伝えることと、ダシにしたくないこと、この二つが比例してライトからヘビーにグラデーションで並んでいる気がする。思い入れがないものほど自分もあまり伝えられないのではと思っているがこれは錯覚か?
錯覚ならば裏切らずにすむ手札を探しなおさねばならない。

 

 

いつもの三倍ほど書いてしまった。長い。自分の努力不足な気がしてきたので収穫はあった、かもしれない。