日記:二十三日目:エスタブリッシュメントになってしまった

エスタブリッシュメントになってしまった。いや、まだなのだけれど。

元々そっちの気配はあったのだけれど、今は、まごうことなき、という感じだ。

学部の頃は他大の"高学歴"たちと世界を変えるだなんて言ってたけれど、今までのソレは無邪気かつ無責任で、良くも悪くも自分個人の影響なんてそんなになかった。今や影響力を行使できるー言いかえれば権力を持つー立場に来てしまった。しかし恐ろしいのは、自分の裁量はあまり大きくないということだ。自分の意思を通す余地なく、多大な影響力を行使して、世の中の人々が眉をひそめ、嘆き、ため息をつく相手に私はなる。

 

はじめに断っておきたいのは、今日使っている「エスタブリッシュメント」という言葉は、ややネガティブな意味だということだ。去年まではまだ褒め言葉のフリをできていた「エリート」も、特に政治の分野においては「驕り」「視野の偏り」「停滞」といったニュアンスを持つようになってきたのではないか。

日本国内でも、今年はスキャンダルや、少し目立った試みのおかげで、彼らは関心を集めている。一括りにして語られる言説を、対象としてではなく自分にも向けられる言葉として受け止める時、重苦しくなるような、弁護したくなるような、そんな気持ちで眺めている。

 

正直に本心も述べておけば、高揚する気分もある。押しとどめようとは思うのだけれど、やはりそれなりの労力を割いた結果だし、やってみたいことがあるし、心優しい周囲の人々が脊髄反射のように祝いの言葉をくれれば、どうしても嬉しくなる。

また、今の段階では自分に実力がまったくないことも深く認識している。組織うんぬんを語る前に、まず自分が使い物にならなければ(組織内で求められる水準を満たしてもいないのに)わかったフリして評論を加えるだなんて、なんというかイタい。

 

こうした予防線を長々と留保した上で、改めて今の心境に向き合うと、心もとない。自分と同じ立場の人たちが浮かれきっていることも、自分が善いエスタブリッシュメントになれるかどうかを想像しがたいことも怖い。

きっと不合理なほどの仕事量に追われ、自分のスキル不足に落ち込み、日々組織に適合するだけで四苦八苦し、飛ぶように時間が消えていくなかで、私は私のなりたい人間になれるのだろうか。世の中を良くしたいだのなんだのという妄言を、口先で遊ばせるだけでなく、形にできるのだろうか。機密事項を話せない中で外の人にもらう忠言を、はねつけずに受け止めることができるのだろうか。気概と能力を腹に抱けるだろうか。

悲観的に未来を予想すれば、きっと私はまず「使い物になる」ために時間の大半を使い、組織内部で共有される"立場"や"役割"が内面化され、自分の努力を正当化したくなって、外の人が呈してくれる苦言を「何も知らないからそう言えるんだ」と、自分が傷つかないために聞き流してしまう、という人物になりそうだ。

なりたくない。

使い物になったうえで、最適化をきちんとしたうえで、自分を対象化できるような。立場をふりきった視点を、もう一つ自分の中に飼えるような、そういう人間になりたい。

 

ということで、これからの時間は研究だけでなく、趣味の読書と、人との語らいを増やしたい。自分の中に三権分立としての裁判官を飼うことができるように。